Mag-log in乾いた音が、唐突に室内へ響き渡った。 次の瞬間、陽菜の思考は完全に途切れる。何が起きたのか理解できず、少なくとも一分ほどは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。 鷹宮の母は手加減などしていなかった。鈍い痛みがすぐに左頬から広がり、じわじわと顔全体へと侵食していく。目には当たっていないはずなのに、まるで眼球の奥まで痛みが届いているかのようだった。 鷹宮もまた、一瞬遅れて我に返った。 その顔からは血の気が引いている。言葉すらまともに出てこないまま、慌てて陽菜のもとへ駆け寄り、両肩を強く抱き寄せた。そのまま自分の胸の中へと引き込み、守るように覆い隠す。 頬の痕を確かめたあと、鷹宮は顔を上げ、母親を鋭く睨みつけた。「何を……しているんだ……!」 その問いに対して、母はまったく悪びれる様子もなかった。「何? 息子をたぶらかした女よ? 母親として叩いて何が悪いの?」 むしろ、息子が自分を責めるような視線を向けたことが気に入らないのか、その怒りはさらに強くなっていく。 そして、その矛先は再び陽菜へと向けられた。「こんな女さえいなければ、私があれほど大切に育てた息子が、こんなふうになるはずがないでしょう」「……」 彼女の言葉の中に、一つだけ否定できない事実があった。 暴力が許されるはずはない。だが同時に、鷹宮には母をどうこうする術がないという現実も、確かに存在していた。 謝らせることも、考えを変えさせることもできない。 それでも、傷つけられた事実だけは、どうしようもなく残る。 鷹宮は苦しげに眉を歪めた。 母が謝ることなどあり得ないと分かっていた。だからこそ――次の瞬間、彼はためらいなくその場に膝をついた。 あまりにも速く、躊躇のない動きだった。「ごめん……陽菜さん。母の代わりに謝る。どうか、許してほしい……」 その声には、抑えきれない苦痛が滲んでいた。 頬の痛みよりも、その光景の方が、陽菜にははるかに衝撃だった。 心臓が止まりそうになる。 鷹宮の母でさえ、一瞬言葉を失い、やがて遅れて悲鳴を上げた。「な、何をしているの……!」「や、やめてくださいっ……鷹宮さん……!」 陽菜は慌ててしゃがみ込み、彼を引き起こそうと手を伸ばした。だが鷹宮はまるで床に縫い付けられたかのように動かない。 力ではどうにもならず、陽菜もその場に膝をつく
一瞬、陽菜は鷹宮が何かを含んだ言い方をしているように感じた。 それが何を指しているのかは分からなかった。少し考えた末、やはり事件のことは鷹宮に話さないことにした。 家の中で起きているあんな事情は、決して人に誇れるものではない。陽菜は鷹宮に心配をかけたくなかったし、何より、彼の中で自分の価値がほんの少しでも下がるのが怖かった。「……特に変わったことはありません。最近、一条くんが新しい工場を探していて、私も海外の工場にいくつか連絡しているんです。ただ、サンプルの郵送に時間がかかりすぎて、一条くんも少し困っていて……」「工場か……たしかに修司から聞いたよ。僕のほうでも知り合いの社長に聞いてみる。何か力になれるかもしれない」「あ、い、いいですよ。これも私の仕事ですし……それに鷹宮さん、もう十分お忙しいのに、これ以上忙しくならないでください」「大丈夫。君の力になりたいんだ」 鷹宮は穏やかに笑った。 陽菜がそれ以上話そうとしないことを察したのか、彼もまた、深く問い詰めることはしなかった。 食事がまだ半分ほど残っている頃だった。不意に、玄関の外から物音がした。 続いて聞こえてきたのは、鷹宮の母の声だった。「凌、いるの?」 陽菜だけではない。鷹宮でさえ、明らかに動揺していた。 それでも彼はすぐに自分を取り戻そうとした。 陽菜を見つめた数秒のあいだに、彼の頭の中ではいくつもの選択肢が巡ったのだろう。彼は陽菜を隠すこともできた。なにしろこの家は広い。どこかに身を潜めれば、少なくともすぐには見つからない。 けれど、そんなことをすれば、まるで二人が本当に後ろめたい関係であるかのように見えてしまう。 結局、鷹宮は唇を固く結んだだけだった。 そして、食卓の上に置かれていた陽菜の手へと、自分の手を伸ばした。 陽菜も緊張していた。怖くさえあった。 鷹宮の母は、それほどまでに人に圧を与える女性だったから。 不思議なことに、鷹宮の手が自分へ伸びてきたその瞬間、陽菜の中にあった恐怖はふっと消えていった。 鷹宮の母が部屋へ入ってきて最初に目にしたのは、二人が固く手を握り合っている姿だった。 彼女の目が、一瞬で大きく見開かれる。 信じられないものを見たかのように。 そして次の瞬間、陽菜の全身を震わせるほど鋭い悲鳴が響いた。「あなた……あなたたち……!」
契約書を手に入れてからというもの、立花は間髪入れず、そこに記された条項の一つひとつを精査し始めた。わずかでも東和に不利となり得る隙を見つけ出すため、徹底的に読み込むつもりだった。 陽菜はその間、落ち着かない日々を過ごしながら、連絡を待ち続けた。 けれど、数日が経っても、望んでいたような“いい知らせ”は届かなかった。 東和の法務チームは、やはり一流だった。 一見すれば理不尽に思える条項がいくつも並んでいる。だがそのどれもが、絶妙な線で法律の枠内に収まっており、形式上は完全に合法とされるものばかりだった。 それでも立花は諦めなかった。 電話越しに、次の手を冷静に伝えてくる。「大丈夫だ、藤野。契約自体に明確な瑕疵は見当たらないが……まだ特許の正式な移転登記は済んでいない。だからこちらから、地裁に特許権移転登記禁止の仮処分を申し立てる。少なくとも東和の次の一手は止められるし、その分だけ時間も稼げる」 法律のことは、陽菜にはよく分からない。 立花の言葉には迷いがなかった。「はい、先輩。私にできることがあれば、何でも言ってください」「今の藤野に一番大事なのは、ちゃんと休むことだ。考え込みすぎるな。……修司から聞いたぞ、この数日ほとんど眠れてないって。あいつ、結構心配してる」 一条の名前が出た瞬間、立花の声が少しだけ軽くなる。隠しきれない興味が滲んでいた。「えっ……それは、一条くんが大げさに言ってるだけです」「そうか? でも、あいつが女の子のことでそこまで気にするの、初めて見たかもしれないな……はは。藤野、ちゃんと休めよ。あまり心配させるな」 軽く冗談を交えたあと、立花のほうに新しい仕事が入ったらしく、通話はそこで切られた。 スマートフォンを下ろした陽菜は、無意識のうちに視線を横へ向ける。 ――一条のいるオフィス。 扉は半開きになっていて、中の様子が少しだけ見えた。 一条はデスクに向かい、書類に目を落としている。表情はいつもよりわずかに険しく、眉がほんの少し寄っていた。 どうやらあまり良い内容ではないらしい。 だが、そのとき。 まるで視線に気づいたかのように、一条がふと顔を上げた。 目が、合う。「……っ」 陽菜は慌てて視線を逸らした。 けれど、それではあまりにも不自然だと気づき、すぐにもう一度だけ、そっと見直す。 一条は、
外がまだ騒然としている隙をついて、一条は来た時と同じように静かに病室を抜け出した。 その姿を鋭く捉えた陽菜は、一条が離れたのを確認した瞬間、先ほどまでの勢いが嘘のように弱まっていく。男に食ってかかる気迫も急速にしぼみ、やがて看護師たちのやわらかな説得に押される形で、完全におとなしくなった。 立ち去る直前、陽菜は男を睨みつけるように一瞥した。だが、感情を一切映さない無機質な視線を受けると、それ以上は何も言えず、どこか気まずそうにその場を離れた。 安全な場所で一条と合流した瞬間、陽菜はようやく張り詰めていたものを解いたように、深く息を吐いた。 膝はまだわずかに震え、手も先ほどの騒動の余韻を引きずるようにかすかに揺れている。「一条くん……こんなこと……もう二度と、したくないです……」 弱々しくこぼれた言葉に、一条は思わず小さく笑みを浮かべた。衝動を抑えきれず、そっと片手を伸ばして彼女の肩を支える。「でも藤野、いい知らせがある。お父さんは見た感じ問題なさそうだったし――契約書の原本も、ちゃんと手に入れた」 そう言って、一条は手にした書類を軽く振って見せる。 陽菜はすぐにそれを受け取り、数ページめくった。目に映る文字を追うほどに、表情は次第に明るくなっていく。「よかった……! 一条くん、本当にありがとうございます……!」 心からの安堵と喜びが、その声に滲んでいた。 一条はそんな彼女を見つめ、穏やかに笑う。「礼はいらないよ。むしろ――今回の立役者は藤野のほうだろ。ちゃんとご褒美、考えないとな」 契約書を手に入れたことで、帰り道の空気は明らかに軽くなっていた。 行きの車内に漂っていた重苦しさは消え、二人の会話も自然と他愛のないものへと変わっていく。 道の途中、ふいに陽菜のスマートフォンが鳴った。 一条の話に耳を傾けていた彼女は、画面をよく確認しないまま、反射的に通話ボタンを押す。その間も、一条は拾ったばかりの白い子猫の話を、楽しそうに続けていた。「はい……」「陽菜さん? 今日……あっ、もしかして今、修司と一緒にいるのか?」 受話口から聞こえた声に、陽菜ははっと我に返った。 鷹宮の声だ。 思わず一条を一瞬だけ見てから、背筋を伸ばし、きちんと答える。「はい……今日は一条くんに、父のお見舞いに連れてきてもらって……」「お父さん? 何か
陽菜は病室の外壁に掲げられた父の名前を、もう一度確認した。 そして、努めて理性的に、けれど胸を張るように声を上げる。ほとんど叫びに近かった。「中にいるのは私の父です。どうして私が入ってはいけないんですか!? 私より、あなたは何なんですか。どうして父の病室の前に立っているんですか!」 陽菜はこれまで、こんな大声を出したことなど一度もなかった。たとえ演技だとしても、誰かとここまで正面から衝突したこともない。 だが男は、これまでにも理不尽に騒ぎ立てる人間を嫌というほど見てきたのだろう。急に声を荒らげた陽菜など、まるで相手にしていない。 むしろ滑稽だとでも言うように、鼻で笑った。「お嬢さん、藤野さんは今、静養が必要な状態です。どうかご理解ください。……あなたが本当に娘さんなら、なおさら」 その一言に、陽菜は本気で頭に血が上りそうになった。 胸の奥から湧き上がる怒りに任せて、陽菜は「父に会わせてくれないなんておかしい」と男に食ってかかり、病室へ押し入ろうとした。 ほどなくして、その騒ぎを聞きつけた数人の看護師が慌ただしく駆け寄ってくる。 人が来たのを見て、陽菜はさらに引き下がらなかった。スーツの男を指さし、看護師たちに向かって訴える。 場は一気に混乱した。 その混乱に紛れて、一条はスーツの男の注意が逸れた一瞬を逃さず、病室の中へ滑り込んだ。 陽菜の父は、扉のすぐそばに立っていた。 早い段階で外の騒ぎに気づいていたのだろう。 一条が慌ただしさに紛れて入ってきたのを見るなり、びくりと肩を震わせた。しかも一条は、彼にとってまったく見覚えのない男だ。身体は反射的に後ろへ下がり、その姿は明らかに怯えていた。「藤野のお父さん、ですよね?」 あまりにも怯えた様子に、一条はできる限り柔らかな声で呼びかけた。両手を軽く上げ、危害を加えるつもりはないと示しながら、早口で自己紹介する。「俺は娘さんの友人です。藤野陽菜さん、ですよね。高校の同級生で、一条修司といいます。……藤野が俺の名前を出したことがあるかは分かりませんが。今回は、ご家族の件で彼女と一緒に来ました」 娘の友人だと聞いて、陽菜の父は少しずつ警戒を解いた。だがすぐに、病室の外にいる陽菜のことを心配そうに尋ねる。「一条くん……? 娘は今、外にいるんだろう? あの子は大丈夫なのか?」「大丈夫です
事実の重さに圧倒され、陽菜はしばらく言葉を失った。 唇を閉ざしたまま、何も言えない。 つい先ほどまでの月乃の言動を思い返す。 人は大人になってから急に変わるのではなく、最初からそういう本性を持っていたのかもしれない。ただ、それに気づかなかっただけで。 その沈黙に気づいたのか、一条がちらりと陽菜を見る。少しだけ表情を曇らせ、気遣うように口を開いた。「悪い、藤野。今の話、きつかったか」「え……」 陽菜は一瞬きょとんとし、小さく首を振る。「違います……ただ、月乃がああいう人だなんて、思ってもみなかっただけで」 車外の雨は、いつの間にか強くなっていた。フロントガラスを打つ音が、次第に存在感を増していく。 雨のせいで空も暗く沈み、昼間の明るさはどこかへ消えていた。 穏やかな英語のバラードが流れる車内は、不思議なほど静かで、外の世界から切り離されたような空気に包まれている。 その中にいるのは、陽菜と一条、ただ二人だけ。* 病院に着いた頃には、すでに夕方になっていた。雨脚は衰えるどころか、さらに強まっている。 胸の奥に、言いようのない不安が広がった。 父から聞いていた病室を頼りに向かう。 だが、そこに父の姿はなかった。 ナースステーションで確認すると、父はすでに別の病室へ移されているという。 しかも、個室に。「個室……」 移動したのは数週間前。 時期を考えれば、あの契約の話をしてきた頃と重なる。 一条の眉が、わずかに寄った。 嫌な予感がする。 二人は足早に個室のある階へ向かった。そのフロアはひどく静まり返っている。 父の病室の前には、一人の男が立っていた。 スーツ姿で、無言のまま周囲を警戒している。 陽菜は見覚えがなかったが、一条は小さく声を落とした。「……東和の人間だ」「東和……?」 胸が大きく跳ねる。 今日一日だけでも、驚くことばかりだ。 それでも、目の前の状況を見れば、すべてが繋がる。 連絡の取れなくなった父。 勝手に移された病室。 そして、入口に立つ見張りのような男。 陽菜は一条と視線を交わす。 一条の表情には迷いと苦さが混じっていたが、やがて静かに頷いた。「……お父さんが、閉じ込められてるんだ……」 ほとんど声にならないほどの小さな呟き。 これまでも父が電話に出ないことはあった。だから
月乃にそう言われてしまえば、陽菜には断ることができなかった。 もともと気の弱い性格だ。たとえ月乃に引き止められなくても、こんなふうに泣いている彼女を置いて立ち去ることなど、できるはずがない。 「話して、月乃ちゃん。ちゃんと聞くから」 「うぅ……」 陽菜の言葉を聞くと、月乃の泣き声は少しだけ小さくなった。陽菜が差し出したティッシュを受け取り、顔の涙をそっと拭う。 だが、ティッシュに滲んだアイシャドウを見た瞬間、慌てたようにバッグから鏡と化粧ポーチを取り出した。 すすり泣く声を漏らしながらも、手元は驚くほど真剣だ。器用に崩れたメイクを直し始める。 その様子に、陽菜は思わず目を丸く
陽菜はわずかに口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。 記憶の中の月乃は、服装も話し方も、もっとおとなしくて柔らかな印象だった。 だが今、目の前にいる月乃は、身なりも言葉遣いも、高校の頃よりずっと刺々しい。変わりようがあまりにも大きくて、陽菜は目の前の彼女と、記憶の中の月乃をうまく重ねることができなかった。 この瞬間、陽菜は今日この約束を受けてしまったことを、心の底から後悔していた。 本当なら、もっと大事なことがあるはずだった。 母に電話をかけて、事件の深刻さをきちんと伝えなければならない。 立花先輩からのメッセージにも、早く返事をしなければならなかった。あまり長く待た
一条は迷いなく言い切った。 東和キャピタルとはそういう存在だと、最初から決めつけているかのように。 陽菜彼が本気で怒っている姿を初めて見た気がした。さきほどまで自分をからかっていた態度とは、まるで別人だった。 長いあいだ、陽菜は一条に嫌われているのだと、勝手に思い込んでいた。鷹宮のそばにいる自分を、内心では軽蔑しているのではないか、と。 けれど、今の彼の怒りを目の当たりにして、はじめて気づく。 あれは決して本気の敵意ではなかったのだと。 少なくとも、自分に向けられていたものは、ずっと穏やかな部類だったのだと。 「修司……もしかしてまだ樹くんのことで怒って……」 鷹宮は小さ
陽菜が答えを迷っているわずかな沈黙のあいだ、一条はベッドに横たわる鷹宮へと視線を落とした。 そして、今夜の出来事を短く思い返す。 今日の夜、彼らは一緒にいた。 いや、夜だけではない。 昼間も、その半分ほどは一条が仕事を口実にして鷹宮を付き合わせていた。 業務上の往来があることを理由に、帰国してからというもの、一条はほとんど毎日のように鷹宮のそばにいる。 もっとも、それが完全に仕事のためかと言えば、そうとも言い切れない。 今回の新ブランド開発は、一条の父親が言い出したものだった。 一条自身には大して興味はない。ただ、父親は昔から鷹宮を格別に信頼している。だから一条が鷹宮と行動







